法人概要
企業理念
子ども達の笑顔と共に 学校給食と共にアサヒパンは、初代が下関でパン屋を営んでいた叔父の元で修行を積んだあと、大正時代末に地元大分県別府市で店を構えたのが始まりです。この別府の店が繁盛し、事業拡張を目的にここ延岡で支店を開いたのは昭和4年のことでした。
当時、延岡は、日本窒素肥料(現・旭化成)ができたということで、新たなビジネスチャンスが生まれる、と考えたようです。 しかし、オープン当初は、店頭の食パンを見て「枕が並んじょるが。」と、物珍しそうに眺めるだけだったそう。当時はまだパンは珍しかったらしく、最初に開いた山下町の店は苦労の連続。当然、売上は伸びず悩む日々でした。
そんな中、気晴らしに行った趣味の釣りで、たまたま隣合わせたのが女学校の校長先生でした。 パンについての話を初代から聞いた校長先生、”そんなに栄養価の高い食べ物ならば”と、女学校の購買部に卸し始めたのがきっかけになり、好評を得て、店を持ち直すことができたのです。
とはいうものの、その後、時代は第二次世界大戦へ。戦時中には、軍の命令で、市内の他のパン屋と合併する形で、軍用の乾パン作りに転じ、終には、昭和20年6月の延岡大空襲で、市内が焼け野原になり、工場も消失しました。
延岡一面が焼け野原になる中、終戦当時、まだ尋常小学校6年生だった二代目が、初代の仕事を手伝う形で、掘っ建て小屋から再出発しました。 最初のうちは、車など、まだそれほど走っていない時代ですから、自転車の後ろの荷台にパン箱を積んで配達をしており、荷くずれをおこして、商品がダメになることもあったようです。ある時は、パン箱ごと川に流してしまい、「ほら、そこん川にパンが流れちょるが。なんしよっちゃろか。」と町の人に笑われて、恥ずかしいやら、悔しいやらという苦い思い出も話してくれたことがあります。 二代目は、時代のせいとは言え、行きたい学校にも行けず、やりたい事も出来ずで、自暴自棄になりかけたこともあるようです。しかし、どんな中にあっても、やはり家業のパン屋だけは、続けていかなければと考えていました。紆余曲折ありながらも、船倉町に工場を再建し、その後、正式に学校給食パン製造工場に指定され、市内の小学校にパンを提供し、また、昭和50年代に始まった米飯給食に対応して工場を増築するなど、延岡の学校給食のために、尽力した人生だったと思います。
現在、三代目として、学校給食用のパン・米飯を市内の小学校・中学校に提供させていただいておりますが、アサヒパンの根底に流れていると感じるのは、学校給食用パン作りへのこだわりです。 子ども達が口にするものですから、当然のことながら安心して、そして美味しいパンでなければならない。たくさんの添加物を入れて、柔らかく、保存がきくパンを作るのは簡単ですが、それでは安心して毎日食べることは出来ません。 もちろん、このこだわりは、学校給食用パン以外において心がけていることでもあります。
不必要な添加物を入れないこと、昔からの味を保つこと、そして学生さん達に気軽に味わってもらえるような低価格に設定すること、これらは学校給食に携わる私達のこだわりとも言えます。 これからも、子ども達に安心して食べてもらえる美味しいパン作りを目指して、励んでいきたいと思っております。
沿革
- 大正15年: 大分県別府市にアサヒ製パン工場を開業
- 昭和4年: 宮崎県延岡市山下町に支店を開業、学校給食としてパンの提供を始める
- 昭和20年: 空襲により延岡工場消失
- 昭和45年ごろ: 延岡市船倉町に工場再建
- 昭和50年ごろ: 米飯給食に対応して工場を増築
- 現在に至る
法人概要
会社名 | 有限会社 アサヒパン |
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代表者 | 近藤 隆志 |
創業 | 大正15年 |
所在地 | 〒882-0826 宮崎県延岡市船倉町2丁目5-11 |
TEL | 0982-35-3355 |
FAX | 0982-35-3356 |
従業員数 | 約20名 |
主要取引先 | 延岡市内小中学校、 イオンわくわく広場 |